見えない部分に尽くされる、道具作りと仕込みのプロセス
固形墨の美しさや形を決定づける木製の型を彫る墨型彫刻師 中村家「形集」に弟子入りをし、現在、形集の技術を受け継ぐ佐藤奈都子氏。墨型彫刻師の仕事は、墨型を彫る前段階、つまり「道具を仕込む」ことから始まります。墨型彫刻に使われる道具の多くは、職人自らの手で作られます。
- 素材の仕込み(木を寝かせる):
形集では主に梨材を使用しています。仕入れた木材は、すぐに加工するのではなく、職人の手元で約三年もの間じっくりと寝かされます。工房の環境にゆっくりと馴染ませ、木を落ち着かせるこの長い準備期間があって初めて、歪みのない緻密な彫刻が可能になります。 - 道具の自作(ボチと印刀):
職人の求める細密さを実現するため、畳針や錐(きり)などの細い金属をバーナーで炙り、自らの手になじむように彫刻刀へと加工します。刃先の幅が〇・五ミリにも満たない細い彫刻刀は、形集ではその小ささから親しみを込めて「ボチ」と呼ばれています。さらに輪郭を取る「印刀(いんとう)」など、十数本もの道具を使い分けていきます。 何十年、何百年と先代たちが握り続けてきた飴色の道具を使い、自らの手で刃を研ぎ澄ます。この見えない仕込みこそが、精緻な表現を下支えしています。
- 素材の仕込み(木を寝かせる):
〇・三ミリの手仕事
墨型彫刻師は、固形墨の表面に施される文字や文様を彫る木型を制作する職人です。その木型があることで、墨は実用品であると同時に、美術工芸品としての美しさも備えることができます。
墨型の彫刻には、完成する墨の図案とは「左右反転」、かつ「凹凸が逆」になるという独特の難しさがあります。常に頭の中で完成形を逆算しながら、一刀一刀が慎重に進められます。
- 彩色彫りと文字の美:
文字のまわりを平らに削り落とし、文字部分を凸状に浮かび上がらせる「彩色彫り」。師匠である形集七代目中村雅峯氏からは「黒(墨)になったときに溝が深くなりすぎると、上品さが失われる。筆で書いたような繊細な浅さが必要だ」と厳しく教えられたといいます。浮かび上がる文字の高さはわずか〇・三ミリ。わずかな凹凸も許されません。 - 肉彫りによる立体感:
また、生き物などの複雑な図案を凹状に彫り下げる「肉彫り」では、指先で木型の深さを確かめながら、立体的な加減を職人の感性で調整していきます。
- 彩色彫りと文字の美:
「売り物には花を飾れ」
墨型彫刻の美しさは、ある種のはかなさを孕んでいます。どれほど緻密で美しい絵柄や文字を木型に彫り込んでも、書家が墨を磨っていけば、そのデザインは少しずつ姿を変えていきます。しかし佐藤氏は、師匠である形集七代目中村雅峯氏から授かった「売り物には花を飾れ」という職人の優しさと哲学を貫いています。
「墨としての形が消えてしまっても、それが別の美しい形(作品)に変形して後世に残っていけば、それで本望じゃないか」そう優しく話します。
使い手が墨を手に取り、心を落ち着かせて墨を磨るそのひととき。ふと墨の表面に施された美しい菊の文様や繊細な意匠に目を留め、「どんな人が、どんな想いでこれを彫ったのだろう」と想像する。現代の忙しない消費の中で忘れられがちな、モノを慈しむ豊かな時間が、この小さな固形墨の中に宿されています。
歴史を受け継ぎ、現代の息吹を吹き込む
形集は、一八〇五(文化二)年の創業以来、二百年以上にわたり奈良墨の歴史を裏方として支え続けてきました。時代ごとに、明治の文明開化のランプのデザインや、戦時中の世相を反映した柄など、常にその時々の風土や人々の暮らしに寄り添いながら発展し、受け継がれてきました。
現代において、墨の需要そのものは変化しつつあります。けれど、形集は伝統を守るだけでなく、女性が手に取りたくなるような柔らかい花鳥風月のデザインを考案したり、個人や書家の方のためのオリジナル墨の制作に携わるなど、現代の感覚を取り入れた新しい試みを行っています。
佐藤氏のデビュー作となった作品「光輝(こうき)」は、全面に浮き出た菊の文様が繊細に彫り込まれ、見る人の心にそっと留まるような優しさを湛えています。
「形集の名に恥じない八代目にならなければ。途絶えさせず、奈良にこの技術を残していきたい。」一刀ごとに積み重ねられる静かな情熱は、磨り減ることのない伝統の美しさを、今日も私たちの暮らしへと届けてくれています。
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- 芸術新聞社『墨』創刊50周年記念号特集

